武蔵の国の華なる場所 東京都国分寺市

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 9月に東京に行く都合があったので、国分寺市に行ってみた。東京に行くのは実に6年ぶりであった。

 次に東京のほうに行ったら、古代の武蔵野の面影を探すような旅がしたいと思っていた。いまは衛星写真で見ても住宅がぎっしり建ち並ぶような東京都多摩地方も、かつては武蔵<野>と呼ぶにふさわしい葦荻の生い茂る大草原であった。司馬遼太郎の「街道をゆく(1)」は、甲州街道の章の冒頭において、武蔵野の草を掻き分けて闊歩する坂東武者の様子の想像を描写する。武蔵の国の広さを詠んだ歌も多い。「街道をゆく」には、室町時代の江戸に城を築いた太田道灌が京都で後土御門天皇に贈ったという歌が引用されている。天皇は武蔵の国とはいかなる国かと聞いた。太田道灌は答えて、

露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原

と詠んだという伝説である。現代の東京都の航空写真からは描けないイメージがそこに喚起される。いまや人工物に埋没したかのように思える武蔵野の風景、かつて武蔵国の人々以外には数少ない旅人だけが知り得た風景の断片を探し歩き、掘り起こし、繋ぎ合わせて復元するような旅がしたくなった。

 国分寺市の国分寺というのは、奈良時代に聖武天皇が全国の律令国に向けて設立の命を下した寺院のことである。聖武天皇は、国分寺建設地の選定に関して、「国分寺はその国の華となるので、それにふさわしい場所に建てること」という基準を発している。だとすれば、古代の武蔵国の姿を、「国の華なる場所」国分寺の跡に探すというのがよさそうに思えたのだ。

 中央本線国分寺駅南口の駅前はタクシー乗り場から五方向に雑然と道が伸びており、雑居ビルが所狭しと建ち並ぶ。自分の想像していた東京の駅前に近い感じがした。迷路のような街並みを南に行くと、急な下り坂がある。国分寺駅の南には多摩川が削った段丘状の地形があり、高低差10mほどの崖(国分寺崖線)が東西方向に走っている。坂の下から親子が歩いてくる。母親に手を引かれた5歳くらいの子供にとっては厳しい坂だろうと思った。

 江戸時代には尾張徳川家の鷹狩の場であったというこの付近には、お鷹の道という散策路が国分寺市によって整備されている。それに沿って武蔵国分寺へと歩いて行った。

 この小径に沿う小川の水は非常にきれいであった。透き通っていて、僅か数センチの深さの水が水底の小石や土の模様を絶え間なく複雑に揺らがせている。9月も後半といえ残暑が厳しく、肌を焼くような日差しが照り付ける日だったから、その流れの涼しさに心を癒した。

 目を凝らすとカワニナがいた。本当にきれいな川のようである。数センチの魚影が視界にちらついたが、あれはメダカだろうか。もっと上流にはもっと大きな魚がいたから、その稚魚かもしれない。

 もっと歩いていくと緑に囲まれてくる。道の脇には樹叢が茂り、エノキ、シラカシなどの大木が厳しい日差しを遮ってくれる。平日だったので人気はほとんどないが、シルバーボランティアの方々が散策路にはみ出した草や枝を剪定していた。非常に手入れの行き届いた美しい道であり、それは地元の人々の日々の尽力があってのものなのだということを心のうちに悟った。

 武蔵国分寺まであと少しというところに先の清流が湧き出る池があり、そこは国分寺崖線の直下にあたる。木漏れ日の中に階段があり、崖の上へと繋がっている。湧き出したばかりの水は清浄で冷たい。東京都の、それも都心から決して遠くはないところにこのような清純な水の流れを見ることになるとは思っていなかった。

 悪いことに、この日武蔵国分寺跡の資料館やカフェは臨時休業であった。本当なら、小川に住む生物のことなどいろいろと現地の人に聞いてみたいこともあったのだが。

 武蔵国分寺は現存する寺でもある。特に、平安時代末に作られた薬師如来坐像は鎌倉時代末期の分倍河原の戦いにおいて奇跡的に戦火を逃れ、現在も薬師堂に安置されている。また、本堂には住職が集めた植物を寄せ植えした万葉庭園があり、サルスベリやヤナギが陽を受けてきれいだった。

 現武蔵国分寺本堂から南に、奈良時代の武蔵国分寺があった跡に向かう。非常に広いスペースに基壇があり、等間隔の礎石が並んでいる。厳しい西日を遮るものは、金堂跡と講堂跡のあいだに生える何本かの巨木のみである。さっきまで住宅街を縫うような道を通ってきたから、その広い空間に心が解き放たれていくようだった。古代の人々は、ここを武蔵国の「華」なる場所に選んだのだ。

 そしてここからは、北に国分寺崖線が見える。面白いことに、国分寺崖線の上でもなければ下でもなく、斜面に沿って住宅が並んでいることがわかる。崖線の下は菜園が広がっている。ブルーベリーや柿、里芋などいろいろな作物が植えられている。ここまでの道中では野菜の直売所があり、国分寺市では農業も盛んに見える。

 こうした農業風景や、寺跡にすくすくと育った大木を見ていると、なぜここが武蔵国の華なる場所として選ばれたのかなんとなくわかってくる気がした。武蔵国府からも近い便利な場所にあるだけでなく、南向きの広々とした土地に、国分寺崖線から湧き出した清純たる水が流れる。植物が嬉々として育つような場所は、古代人にとっても魅力的な土地だったのかもしれない。原初、武蔵国に人が住み着いたのはこのような場所だっただろう。

 そして私は、武蔵国分寺周辺の樹叢の植物の快活さに、さらに時代が下った武蔵野の風景の断片を見た。果てしない草原だった武蔵野も、人間活動の変化により江戸時代ごろには平地林へと植生が遷移した。だが、それも東京近郊においてはここ百年の急速な宅地化によって失われていった。しかし、そういう場所だからこそ、人々は僅かに残った樹木のある空間を大切にしているように思える。この後に行った府中市や小金井市でも同じように思った。東京には広々とした緑地公園が多い。そしてそこでせめてもの植物相が守られている。せわしなく剪定作業を行っていた先ほどのボランティアの方の背中を思い出した。

 

 国分寺跡の西側にある国分尼寺跡にも行ってみた。だが残暑のなか3時間以上歩きまわり、着用していた黒いTシャツは太陽放射を良く吸収して自らも熱を放射する。いよいよ汗が出なくなってきて身の危険を感じた私は、倒れそうになりながら西国分寺駅に逃げ込み、スポーツドリンクをがぶ飲みして難を逃れたのだった。

(終)