レンタサイクルの旅 和歌山県新宮市 #2

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 レンタルしたクロスバイクを受け取り、駅前の広場で少しだけ乗る練習とサドル高の調整ををした。唐突だが、この駅前広場には鳩の像と歌碑がある。新宮市は、唱歌「鳩ぽっぽ」(注:「ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ」の歌い出しの「鳩」とは別の曲)を作詞した作詞家・東くめ(1877-1969)の出身地である。これらの像や歌碑は、日本の歴史上初めて口語による童謡を作詞した彼女を顕彰して設置されたものだ。神倉の火祭りや熊野別当に代表される勇壮なイメージが投影される新宮市であるが、市域に正午を告げるチャイムは「鳩ぽっぽ」であり、脱力系な側面もある。

 初めて乗る自転車に身体を慣らしつつ、海のほうに向かう道を走っていく。熊野川を越えた向こうは三重県であり、北越製紙の工場から立ち上る水蒸気は白くもこもことした柱になっている。海沿いで普段は風の強い地域であるが、今日はよく晴れて風も弱い。紀南地方の日差しはなぜかひときわ強く感じられる。やがて海岸沿いに出ると、防風のための松林が広がる。

 松林の向こうは王子が浜と呼ばれる。茫洋とした熊野灘を眺め、激しい波が打ち付ける丸石の浜である。この浜には、熊野古道中辺路で新宮の速玉大社に詣でた後那智に向かう、巡礼の最終盤となる道が通る。熊野古道では、この浜から山道に入り、高野坂を超えて三輪崎に向かう。自転車では、県道あけぼの広角線で広角地区の高台を超えていく。

 あけぼの広角線は初めて通る道だった。広角地区の高台は住宅地もあれば開墾された箇所もあり、さつまいもや里芋の畑があった。紀南地方の道の駅では、ときどきさつまいもの茎が売られている。さつまいもの茎の食用は農林水産省のHPで高知県の郷土料理として紹介されているが、この辺りでも、さつまいもの茎を甘辛く煮付たり炒めたりして食べることがあるという。

 国道に合流して坂をひとつ越え、三輪崎に至る。きのくに線の踏切を越えれば再び海が見えて、漁師町三輪崎の道筋を通り過ぎていく。三輪崎の漁港の片隅には、人工物にあふれる堤防において異様なほどワイルドな岩塊がある。これは鈴島という島が、堤防の建設により陸続きになったもので、熊野灘に向けて地震で隆起した波食棚が広がり、蝋燭のような細長い岩がそびえ立っている。堤防と岩塊に囲まれたところには干潟があり、無数の小さい蟹がハサミを小刻みに上下していた。それを眺めていると、遠くで操業の片づけをする漁船から無線の声が波音交じりに聞こえてきた。

 紀伊佐野駅の付近から内陸に入り、目の前に現れた急坂を上っていった。いつもより軽いギアでどんどんと標高を上げて、左手には木ノ川の集落を俯瞰する。新宮港に向かって蛇行しながら流れる小河川の谷に形成された木ノ川地区には、民家が散在し、田畑もあり、陽光が小規模なみかん畑に降り注ぐ。振り返れば、谷のあいだから海が見え、海に突き出た宇久井半島も見える。和歌山県歌には「陽に映ゆる 緑の起伏」という詞があるが、その詩情は県都・和歌山から遠く離れたここ新宮にまで浸透している。地区の最奥部までたどり着いたとき、「鳩ぽっぽ」のメロディーが響き渡り、正午を知った。

 折り返して木ノ川の集落に降り、地区を貫く細い道をゆっくりと走った。佐野、三輪崎を通って再び新宮に戻る。市街地を縫うように走り、越路隧道を抜けると、かつて多数の巡礼者が本宮から新宮に向けて船で下った熊野川の雄大な流れが右に広がる。地質図を見れば分かるように、熊野川の両岸は主に熊野酸性花崗岩類、すなわちマグマが冷え固まったもので形成されている。川岸の岩をよく見ると、柱状節理がある箇所が散見される。

 ほんの一目見て折り返すつもりだったはずが、熊野川の青さに見とれて走り続けるうちに、5km上流に進んでしまった。ペットボトルの水がほぼ無くなりつつあることに冷や冷やしながらの道程だったが、高田方面への分岐にあるコンクリート工場前に自動販売機が設置されていて事なきを得た。この分岐の目の前にある巨大な柱状節理は那智の滝を思わせるほど高く切れ落ちている。この山が崩れたとき、いかなる轟音が谷に響いたであろうかと、これを生じたドラスティックな地形の変化に思いを馳せてしまった。だが、後日調べたところこの崩落は採石場の跡であり、人工的に山を崩してきた結果の地形らしい。ただし柱状節理の構造自体は本物であり、柱の一本一本の高さを見ると、この地域に想像もつかないほど重厚なマグマ溜まりがあったことがわかる。給水の不注意は反省すべきだが、これほどの標本を生で見ることができ、往復で10km余分にコースを追加しただけの甲斐はあった。

 新宮の街に戻ってきた。仲之町商店街で食事を摂り、神倉神社の前や速玉大社の社叢のまわりを気ままに走った。城下町として栄えた新宮には、その町割や住宅の前の水路にその面影を残している。別当屋敷町では山に沿って建ち並ぶ寺院の石垣が、歴史めいたものを伝える。熊野別当家は、修験道の指導者として中世熊野の全域に宗教・政治の両面で権威を振るっていた。別当屋敷町という地名がいつ成立したのかは知らないが、代々の別当がここに住んでいたのだろうか。

 新宮の街を走っていると、市街の表情から見え隠れする文化の堆積の深さを思わずにはいられない。速玉大社を中心とした中世からの巡礼地であるだけに留まらず、城下町としての来歴を重ね、明治期以降も前述の東くめ、作家の佐藤春夫や中上健次、日本における電波天文学の開拓者・畑中武夫など数多くの文化人がここに育った。新宮市にはこうした偉人の輩出を単に誇るだけでなく、彼らの考えたこと・遺したものを吟味して顕彰し後世に伝えようとする気風がある。2018年には、明治期の新宮で篤志の医師として平和・人権思想の基礎を築いたものの、冤罪に問われ非業の死を遂げた(大逆事件)大石誠之助が名誉市民として指定され、名誉を回復した。中上健次が始めた公開講座・熊野大学は彼が没して30年経つ今も続いている。

 そうした偉人たちが生まれた時代と比べて、こんにちでは新宮の人口もだいぶ減ってしまったのかもしれない。交通としても、現代の価値観で言えば「不便」な場所にある。自然は激しく、1944年の南海地震や、2011年の紀伊半島大水害など、繰り返される自然災害はこの街を激しく揺さぶってきた。しかし、そのような状況においても新宮の街が文化の涵養地であり続け、世界に新たな価値観を提示する人々がここから生まれ続けるだろうということを、私は決して疑わない。

 新宮駅前に戻ってきたとき、GPSログによる走行距離は43kmであった。最初にも書いた通りの通い慣れた場所だったが、距離もちょうどよく、行ったことのない地域の風景も垣間見る楽しいサイクリングができた。