狛猫の神社 天女の棲む空 京都府京丹後市 #2

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 この日は未明に寒冷前線が通過し、日本付近は西高東低の冬型の気圧配置になった。北寄りの風に乗って日本海からちぎれちぎれの雨雲が流れ込み、傘を差すほどでもない小雨が降ったり止んだりしている。東西に長い峰山の街では東西に延びた長方形の区画に建物が並び、南北に歩いていくとこまめに何本かの通りを横切ることになる。途中、日本一短いアーケード通りといわれる市場をくぐった。

 峰山の街を見渡せる小高い丘に上った。椛の木々が丘を包む。雲の薄くなったところから弱々しくも日が差せば、雨に潤う葉の丹色が増して艶やかになる。階段を上がり切ったところには丹後国風土記に伝わる天女の伝説にちなんだ歌碑がある。丹後国風土記は散逸しており現存していないが、旧峰山町域にある磯砂山に降り立った天女の物語を掲載していたとされており、これは文字として記録された天女伝説としては最古級のものとされる。8人の天女が降りたという磯砂山を探したが手前にも山があり、よくわからなかった。

 この丘は祈りと鎮魂の丘でもある。与謝野町の旅行記でも触れた1927年の北丹後地震は、この峰山町域に特に甚大な被害を及ぼした。震源断層である郷村断層にほとんど接した峰山町では建物の倒壊と火災により当時の人口の24%が失われた。犠牲者を悼む震災記念塔は厳然として丘に立ち、並んで丹後震災記念館がひっそりと佇んでいる。

 与謝野町の旧加悦町役場がそうであったように、この丹後震災記念館は峰山における復興のシンボルである。震災後すぐに建築され、北丹後地震の記憶継承を長く担ってきた。窓の小ささなどに耐震性への意識が現れる鉄筋コンクリート造建築であり、京都府の指定文化財としてその価値は高く認められてきた。いまは老朽化が進み、建物の中に入れない。この日も側面の雨どいのパイプから雨水が漏れていた。

 丘を下りて街を歩く。古い街でも通りの道幅がやたらと広いのは、北丹後地震のあと再生の過程で幅員を広げたためであることを後に知った。ほぼ全ての建物が倒壊してしまったため、大正以前の建物はまず残っていないと考えられる。しかし、大きな古い商家はあり、店の前では巻いた織布をワゴン車に積み込む作業をしていた。また日が差してきた。道路の中央では融雪用のスプリンクラーが早くも作動していて、その水しぶきがきらりと光っては乱れた気流に巻き上がる。それも束の間また雨が強くなり、傘がひっくり返るほどの風が吹き抜けることもあった。

 予定の列車を一本遅らせて駅裏の農産物直売所にも行った。梨のジャムや峰山で採れた柿を入れたトートバッグを肩に提げて駅に向かうその帰り、太陽を隠す雲が一瞬切れて、北の方角に虹の断片を見た。写真を撮ろうとした途端に消えてしまうほどの淡く低く短い虹であった。丹後の晩秋から冬に、雨が急に降ったり止んで晴れたりを繰り返すこのような気象、あるいはそれをもたらす季節風を丹後の人は「うらにし」と呼ぶ。日照を妨げる反面で虹をもたらす気象でもある。風土記に記述されるほどに天女の物語が語られ受容されたのも、古代丹後の空が絶えず生滅する不可思議な現象に満ち満ちていたからなのかもしれない。もしかするとあの虹も、天女がいたずらに描いたものだったかもしれない。

(終)