加悦鉄道資料館の前から見える大江山連峰に西日が当たりはじめて、麓の田園をまぶしく照らす。与謝野駅に戻る最終バスの時間が早いが、それまでの時間で少しちりめん街道の周辺を散歩してみた。
道の脇に「縮緬(ちりめん)発祥之碑」という石碑がある。ここにいた手米屋小右衛門が江戸時代に西陣(現京都市)からちりめん製法の原型を持ち帰り、その後丹後ちりめんが遂げる独自の発展の基となった。彼の菩提寺である吉祥寺など、寺社も建ち並ぶ。眺めがよさそうなので、天満神社の長い階段を上ってみた。6割ほど上ったところで振り返ると、街を越えて向こうの田んぼまで見渡せた。しかしここで足がすくんだ。急な階段には手すりもなく、動けなくなった。神社に参拝することを諦め、おそるおそる這うようにして下まで辿り着いた。街歩きが楽しいと自分がもともと高所恐怖症であったことも忘れてしまうときがある。
街道のなかでも特に目立つ建物として、旧尾藤家住宅がある。丹後ちりめんで財を成した商家であり、白壁や大きい屋根がその風格を伝える。ちょうどこの旅行から帰った直後、この旧尾藤家住宅が国の登録文化財に認められる見込みだというニュースが届いた。
最後に、バスが来るまで旧加悦町役場を見学させていただいた。旧加悦町役場は1929年の建築で、今では与謝野町の観光協会が入居している。観光協会の方が建物を案内してくれた。
数年前に大規模な耐震補強工事を施したのだという。「文化財の工事において重要なこととして、できる限り元の状態に戻すことというのがあります。」 2階の旧議場に通していただき、説明を聞く。耐震化のため、旧来は存在しなかった梁を新たに入れたのだが、それを可能なだけ目立たない形にしているという。また、旧議場の天井は建築当初格子天井であったが後に改修されていたことがわかっており、この工事の際に改めて格子天井に復原された。かつての格子天井に使われていたベニヤ板が4枚見つかり、それらはそのまま残したという。
2階の廊下の窓ガラスのなかにも、当時のものが残っている。古いガラスは表面の形状がなだらかに波打っていて、外から差し込む秋の陽に揺らぎを与える。鍵の部分に指を差して、観光協会の方は言った。「実はこの建物は震災からの復興のシンボルなんです。」 彼女が話す震災とは、1927年3月7日の北丹後地震(気象庁マグニチュード7.3, 死者2925人)である。この地震では当時の加悦町役場も倒壊した。それに代わるこの建物は宮津出身で甲子園球場の設計も行った今林彦太郎氏が設計し、僅か2年での復旧を果たした[3]。窓の鍵部分の金属には、ねずみの絵が彫られている。ねずみは繁栄の象徴であり、地震からの復興を果たした加悦町が再び商業で栄えるように、という思いが託されている。
加悦鉄道にとっても開業3か月での苛酷な試練であったが、たった6日で全線復旧を成し遂げた[4]。胸に沸き起こるのは当時の加悦に生きた人々、あるいは地域が発揮したレジリエンスに対する静かな驚嘆だ。時代は100年分違うとしても、彼らと同じものが今を生きる我々にも備わっていると信じてみたくなった。
観光協会の方と表に出た。旧役場庁舎の前から見える家の中にも、文化財として貴重な家があるという。庁舎の右手にある家の瓦を見れば、午前に宮津市の溝尻で見たのと同じ桃の飾りがあった。「あの桃の飾りが民家にあるのは珍しいですが、あれは魔除けなんです。」ということだった。朝の疑問がひとつ解けたとき、与謝野駅に戻るバスがやってきた。