情熱はある日の煤煙のように 京都府与謝野町 #2

かぼちゃの曲率トップ>旅行記>このページ

前のページ

 丹後山田駅(現在の与謝野駅)からここ加悦までを結んだ加悦鉄道線は、1926年に開業、1985年に廃止された。資料館の内部には、加悦鉄道で使用されていた信号機、レール、保線工事の道具、沿線案内の絵図などが所狭しと並べられている。そのひとつひとつを見ていけば、汽笛が鳴り響き煤煙がたなびいていたころの加悦谷の様子を詳らかに知ることができる。

 加悦鉄道は、加悦町民の出資により建設が進められた。住民の出資となった背景には、丹後山田から加悦を通り出石(現兵庫県豊岡市)に至る鉄道省の新線建設計画が頓挫したということがある。特産品の丹後ちりめんを京都に運ぶためには鉄道の力が必要であり、加悦の人々が自腹を切って念願の鉄道路線を通した形であった。それだけに、集合写真に写る開業当初の関係者たちの表情は誇らしげに見えた。

 途中からは、加悦鉄道資料館を運営するNPO法人・加悦鐵道保存会のスタッフの方が付いて説明をしてくれた。熱意ある語り口のお兄さんで、私は彼の加悦鉄道への深い愛を感じながら語りを聞いていた。私ももともとは鉄道旅行から旅好きになった身なので、シンパシーを感じて徐々に気分が乗せられていく。我々は、レールの敷設に使われた巨大なハンマーを見ては、人力時代の地道さに思いを馳せてその果てしなさを語らい、加悦から舞鶴、果ては直江津や青森までを見渡す形で描かれた鉄道路線絵図に、当時の人々が鉄道に込めた期待を読み取りまた語らった。

 次に、資料館の屋外に出て保存車両を見た。加悦にはもともと加悦SL広場という大規模な鉄道公園施設があり、加悦鉄道で使われていた多くの機関車や客車はそこに保存されていた。しかし老朽化のため、加悦SL広場は数年前に閉園した。今ではSL1両と客車2両がこの資料館で保存されている。とりわけ加悦鉄道2号蒸気機関車は日本最古級の鉄道車両で、大阪-神戸間の開業(1874年)にあわせイギリスから輸入されて使われていたものである。島根県の簸上鉄道(現JR木次線)に移籍したのち、1926年開業当初の加悦鉄道にやってきた[2]。

 一時は2号機関車を退役させてディーゼル機関車を導入する動きもあったようだが、この2号機関車はパワーがあったらしく、大江山の鉱物を運ぶためにはやはりこちらの方が優秀だったらしい。1956年ごろまで使われていた。

 加悦SL広場から移ってきた3台とは別に、京都市の大宮交通公園から里帰りを果たしたSLもある。C-160蒸気機関車は、戦中の1942年に製造されて加悦鉄道で大江山鉱山のニッケルを運ぶ業務に従事した。その後、1966年に廃車となって大宮交通公園に展示されていた。加悦鉄道資料館に移ってきたのは2019年のことであった。所有者となった加悦鉄道保存会の会員たちが破損したパーツの修繕や車体の清掃を繰り返し行い、雨風を凌ぐための屋根なども作ってきた。塗り直されたオイルが車体の表面に浮き上がり、西日を混ぜて黒光りする。屋根は鉄パイプやトタンを組み合わせたものである。案内の保存会のお兄さんは、国や与謝野町の指定文化財となっている3台には立派な屋根が用意されているのにC-160は即席の屋根で少しかわいそうなので、いずれは他の3台と同じような屋根にしてあげたいと言っていた。

 最後に、案内のお礼と活動の支援の意味も込めて加悦鉄道のグッズを購入した。加悦鉄道保存会では、大量に残されていた当時の硬券や記念乗車券などを販売して活動費の補助としている。加悦鉄道の晩年は、観光鉄道としての需要の開拓に力を入れており、そのため記念乗車券などが多く作られた。奥にいらしたベテランの保存会員の方が、応援してくれているようなので、としてさらなる記念品をくれた。

 加悦鉄道が廃止となって40年弱、今ではSL広場も閉園となった。そのような状況で、鉄路の面影が徐々に薄くなりゆくのではないかと勝手な心配をしていた。しかし、保存会の人々の情熱は、加悦鉄道在りし日の煤煙のように加悦谷に煙り立つ。C-160の屋根がいずれ完成することを祈っている。

次のページ