M8.0の痕跡を訪ねて根尾谷へ 岐阜県本巣市

かぼちゃの曲率トップ>旅行記>このページ

前のページ

 濃尾地震の詳細はPart1に書いたとおりであるが、もう少し補足しておく。この地震は、当時の地震学における大きな発想の転換を後押しした。現代ではほとんど当たり前に認識されていることであるが、内陸での地震は、地殻に存在するひび割れ(断層)がずれ動いたときに発生する。すなわち、活断層が動いて地震を引き起こすのである。しかし、濃尾地震の時代はむしろ逆のことが考えられていた。地震は火山の活動など、他の原因によって発生し、地震後に現れる地表のひび割れや変位は、地震の結果として発生するものであると考えられていたのである[5,7]。

 東京帝国大学の地質学者・小藤文次郎は濃尾地震のあとすぐに現地調査を行い、地表に現れた断層を記録した。このときに撮影された写真は論文Koto (1893)として出版され、その明瞭さゆえに、世界の地球科学界で知れ渡ることとなった。小藤は、断層の動きによって地震が発生するという断層地震説を支持する考えを示した[6]。断層地震説が理論的に証明されるのはさらに長い時間を要した[3]が、濃尾地震は地震の成因にまつわる人々の理解を変えていったターニングポイントとして重要な事例である。上に示したKoto (1893)の写真(Koto, Bunjiro., 1893, On the cause of the great earthquake in central Japan, J. Coll. of Sci. Imp. Univ. Tokyo, 5 295-353., Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)は、今でも地球科学を学ぶ学生にはよく知られたものである。

 その本物を目前にすると、やはり感慨深いものがある。その写真のような明瞭な変位は土地利用により埋没しているところも多いが、田畑を切る上下の段差はやはり大きく、これが一度の地震で現れたことには驚くほかない。

 地震断層観察館に入館して、入場料500円を支払った。地震断層観察館の館内には、濃尾地震による根尾谷や周辺都市への被害、地震の一般的な知識などが展示されている。この展示のうち、最も目を引いたのは、地震前後の根尾谷の変化についての説明と、当時の被災した人々の証言である。ここ水鳥では、土砂崩れなどによって根尾川の流れがせき止められ、湖ができたという。そして、そこにいた人々の証言は生々しい。始まった烈震、逃げろと叫ぶ声、崩れ落ちた家々、逃げ遅れて亡くなった村人たち、その亡骸の土葬、そして生き残った人々の生活……。

 地震断層観察館が開館したのは1992年であり、地震(1891年)から100年後経ってのことであった。少なくともその10年前には、濃尾地震を経験した村民が多数生き残っていただろう。長らく濃尾地震は地域にとって負の記憶であったが、それを後世に伝承するためにこの地震断層観察館が建てられた。経験者の遺したものに触れ、自分の中ではもはや歴史地震と思っていた濃尾地震が、とてもリアルなものに映りはじめる。濃尾地震の辛い記憶を乗り越え、後世に残すという決断をした根尾村の人々に、大きな敬意を表したい。

 この観察館のハイライトとなるのが、断層を掘り下げて観察できるトレンチである。濃尾地震の際に生じた6mものずれを、3次元的に見ることができる。地震のマグニチュードは(原理としては)放出されたエネルギーの対数関数で決まるが、このトレンチはM8.0という規模がまさに桁違いであることを視覚に訴えかける。

次のページ