ガイドブックのある旅 和歌山県田辺市

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 日も傾いてきたので、南部駅行きのバスに乗って天神崎([1] p.24)に向かう。天神崎は近年「和歌山のウユニ塩湖」として、フォトジェニックな場所として知られている。海岸の崖が波により徐々に浸食され、海面下の部分だけが広く平坦な磯として残った波食棚である。潮位が一定の値に達し、風の穏やかなときには水面が鏡となる。人が多いのを避けるために、また、SNSに載せられた風景と違うものを見るために、「ウユニ塩湖」が成立する潮位ではない時間を狙った。

 会津川を越えて、岬の付け根を掠める位置にある元町バス停で降りる。ここから徒歩で天神崎に向かった。川を越えるのも初めてのことだった。日没は近く、道は徐々に細くなり、路傍の茂みが深くなる。帰りは田辺市街まで徒歩で戻るので、早めに引き上げないと不安になりそうだ。

 細い道を抜けて目前に広がった海岸は美しかった。湾の対岸に田辺の街が見えて、薄暗い海面が揺れている。潮が引いていたので波食棚に降りることができた。塩湖というほどではないが、岩礁の凹面には海水が溜まり、低くなった陽と淡く焼けた空を映している。塩湖を求めて訪れる観光客は止むことなく、思い思いに各自の写真を撮っている。干からびたタイドプールを縁取るように、海水の蒸発に残された塩の結晶がリング状の模様を作り出している。

 この、自然が描いた抽象画の意味を考えることは、天神崎からの宿題である。潮が引いて最も早く水面に顔を出す、岩礁の微地形の峰の部分に塩は分布する。そこは岩に染み込んだ海水が蒸発する場所である。もし、タイドプールの水面からの海水の蒸発よりも、岩に染み込んだ海水の蒸発のほうが速ければ、多くの海水は岩に吸い上げられ、岩礁の峰から大気に旅立ち、残された塩が峰の部分に結晶するだろう。素朴に考えると、(単位体積の水に対しては)平らな水面よりも表面積の多い岩から蒸発したほうが速そうである。岩のほうが水よりも比熱が小さいので、太陽放射によって岩が温まることで海水の蒸発を加速する効果もありそうだ。

 それにしても、夕方にも関わらず観光客が多い。天神崎の裏の山には1970年代に大規模別荘の建設計画が持ち上がった。しかし、地元の教育関係者を中心として、天神崎における海・森・磯が一体となった生態系を守るための保全運動[2]が始まり、市民による土地の買い戻し運動(ナショナル・トラスト運動)に発展した。ここは過去の先人により現代に贈られた遺産であり、今も天神崎を守る運動は続いている。実際のところ、別荘の建設計画が浮上した当初、天神崎の自然環境が群を抜いて特別なものであるという社会的な認識はなく、天神崎は南部田辺白浜海岸県立自然公園の第3種地(普通地域)であった。そのため。県や田辺市も保全に乗り気ではなかったようである[2]。

 護られてきた「普通の磯」に、写真やSNSという新しいメディアを通して新しい風景が見出されている。天神崎は、特別ではない自然が見せる様々な表情の魅力に多くの人々が気付いたひとつの例である。過去に訪れたときに知ったことだが、隣の白浜町にある千畳敷には、昔の観光客が岩石に自分の名前を彫り波食棚を傷めつけた痕跡が今も残る。天神崎では、この場所が過去から贈られたものであることを多くの観光客が認識し、そのようなことが起こらないでほしいと心から願った。

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