富士山を見に行く 静岡県富士市・富士宮市 #4

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 白糸の滝の西側に広がる田園地帯からは、天守山地を臨むことができる。タンポポなど道端の雑草はとびきり快活に花を咲かせていて、富士の山麓にあるこの土地がいかに水はけがよく肥沃であるかを教えてくれる。滝の周辺は人の出入りが絶えず騒がしさもあったが、僅か数百メートル離れただけのここは風が自由に吹き抜ける色鮮やかな農村であった。

 富士宮市・原地区の圃場は緩やかに南に下がっており、ときおり激しい起伏もある。そのような地形の上に段々の田んぼが広がっている。この傾斜や起伏は富士川河口断層帯に属する芝川断層などの断層の活動によってできたものであろう。散歩を進めるとトラクターでふかふかに耕された畑があったが、その土壌は関西では見たことがないほど黒々としている。それはおそらく黒ボク土であり、火山噴出物に由来する。4月中旬という時期のため、作物はほとんど植わっていないが、ここの農地の風景は秋の豊穣を確かに予感させる。

 ここの棚田は平成に入ってから整地されたもので、それまでの棚田は一枚ごとに複雑な曲線の境界を持っていた。地域全体を挙げた大規模な農地整備の結果、現在のような方形の棚田に作り変えられ、農業機械の導入が可能となった。この地形は必ずしも農業を営むうえで便利ではなかったように思えるが、地域の住民が協力してそれを乗り越えた農地改良の歴史がある。この農業遺産は平成棚田と呼ばれ、いまではそれを巡るウォーキングコースが整備されている。私が歩いているのは、そのコースの一部である。

 棚田を去ろうとして振り返ったとき、白糸の滝を囲む林に隠れていた富士が再び頭を出していた。その林の南側の道を歩いて、狩宿大橋を渡り狩宿に出たとき、ますます堂々と構えた富士山がまた現れる。この里では、どこにいても突如としてその洗練されたシンボルが視界に入り、歩く者を驚かせる。狩宿には樹齢800年を超えるヤマザクラの古木(狩宿の下馬桜)があり、例年4月中旬が開花期だというから楽しみにしていた。が、今年の春は温暖だったからか、すでに葉桜になってしまっていた。大きい樹だが最近は樹勢が良くないというから心配である。その近くで住民が育てている菜の花がきれいだった。

 狩宿から北へ、白糸の滝のバス停に戻る道を行く。田畑を貫く道路を歩けば歩くほど、北東の方角ですべてを見守る富士山が大きくなるようである。この道のどこにも、そして天にも、その展望を遮るものはない。この山をただひたすら展望するという旅前からの願望が無欠な形で叶った僥倖の時間は、もはや永続するかのように感じた。

 「日本百名山」[2]を記した深田久弥は、この山を評して「偉大なる通俗」と書いた。奈良時代から現在に至るまで芸術や文学に無数の表現の典型を供給してきた山を称える言葉だ。緩い上り坂を踏みしめるごとに、全身は山麓を統べる圧倒的なプロトタイプの世界に引きずり込まれていく。成層火山である富士山は、地質学的な時間スケールにおいて山体崩壊の運命を免れ得ない。いま歩いている私にも、大沢崩れをはじめとして無数の溝や傷のようなものが見えている。歪みのない球面が現実に無いのと同じように、一切の瑕や崩れのない山もまた存在しないだろう。それでも、いまはディテールを超越した理想的な円錐形が目の前に在るように見えるのだ。ここでは理想が現実をひっくり返している。「偉大なる通俗」の意味を噛みしめて歩いた。

 芝川断層の終端にある丘を上る坂は険しく、バスの時間も迫っていたので小走りで息絶え絶えになりながら登り切った。これも断層の活動痕であるのだろうか、この丘の西縁は地質図[3]に推定断層として記されている。一番厳しい勾配を越えたとき、西の雑木林が開けて富士山を視界の中央に据えることができた。こうして富士山との告別も果たし、なんとか富士宮駅までのバスにも間に合い、山麓の逍遥を終えたのである。

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