山のほうに向かって坂を歩き、丹後国分寺跡に来た。
東京都国分寺市で武蔵国分寺跡を見てきた(記事)直後であるが、自身の国分寺跡への興味はもともとこの丹後国分寺跡にある。NHKの番組「ブラタモリ」(2021年1月9日初回放送)でこの丹後国分寺跡が取り上げてられており、その放送を見ていた。今では観光の中心地は天橋立の両端にある文殊や傘松にあるが、かつては、天橋立を横から見るこの辺りが丹後国を象徴する場所だったという。朝のバスはあれだけ賑わっていたのに、丹後国分寺跡には観光客はまったくいなかった。
丹後国分寺が立地した高台から眺める阿蘇海と、横に延びた天橋立はやはり美しかった。薄雲の間から光が差し、天橋立の松林を照らす。史跡公園のようになっており、金堂や塔の礎石が整然と並んでいる。丹後国分寺は奈良時代よりあと盛衰を繰り返したが、室町時代の雪舟による水墨画・天橋立図にはこの塔が描かれている。一段高くなっている天平観という展望台からは、国分寺跡と天橋立をひとまとめに展望できる。国分寺跡の奥には調査中のエリアもあり、まだまだ未知のものが埋まっているかもしれない。
丹後国分寺跡と合わせて訪れたかったのが、京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後)だった。入り口では藁で編んで作った「ジャ」が出迎える。栗田峠の民俗的な厄除けである。この施設は国分寺跡から出土した瓦や古墳からの出土品など、丹後の歴史・民俗にかかわる貴重な品を多数展示している。
興味深いのが丹後の民俗資料である。まず、丹後には海での漁獲、採集を生業として暮らしてきた人々が多い。特に京丹後市の袖志地区には海人(あま)と呼ばれる採集を主として行う漁民がおり、貝を採るために使った昔の水中メガネや、腰に付けて採った貝を入れる袋(スマブクロ)などの民具が展示されている。また、伊根町では湾内に迷い込んだ鯨を捕獲していたという。あるとき、捕った鯨が子供を身籠った母親だったことが判明し、供養のために村人は碑を建てたという。
一方、山に生きる人々の民俗資料にも現代に伝わるものがある。寒冷な丹後では木綿を育てるのは難しく、山に自生する藤の繊維を織って衣料を生産していた。このような藤織は江戸時代より前は日本海側に多く分布し、古くは万葉集にも詠まれているが、江戸時代以降は衰退した。しかし、宮津市上世屋をはじめとして丹後国内では戦後まで藤織作りが続いていたのだという。現代でも、貴重な藤織生産の文化を復興し伝える試みが存在している[1,2]。
また、着古した木綿を割いて新たな糸を作り、それを織って丈夫な布にして再利用する裂織の衣類も、木綿が貴重だったこの地域の民俗資料として伝わる。裂織の布は丈夫だったので山仕事に最適であった。一方、裂いた布の組み合わせから多様な模様や配色を作ることができ、仕事着の中に丹後の女性の美意識が現れる場でもあったという。丹後の藤織と裂織はいずれも国指定の重要有形民俗文化財に登録されている。
最後に、ふるさとミュージアム丹後の敷地内にある旧永島家住宅を訪れた。ここは宮津藩徳光村(現在の京丹後市丹後町徳光)の庄屋の家であったものを移築してきたものだ。重厚な茅葺の屋根の下は土間付きの四間取りとなっている。外見は格調高い民家だが、囲炉裏を囲むナベザとダイドコロの間は吹き抜けになっていて内部は開放的であり、南側から朗らかな光が差し込み軽快な風が吹く。移築されてきた今となっては、縁側から天橋立が望める。
与謝野町に行くバスの本数が限られているため、ふるさとミュージアム丹後の展示をじっくりと眺める時間があまりなかったのが悔やまれる。わずか1時間程度の滞在だったが、丹後という狭いようで広い地域の様々な歴史・生活史に思いを馳せる時間だった。なお、ふるさとミュージアム丹後はこの後増築を伴うリニューアルが予定されている[3]。現状長期休館の予定の有無は不明だが、行きたい場合は早めに行っておいた方がよいかもしれない。